朝の法話  第十一回

今週は、スポーツフェスティバルがありましたね。学年の垣根を越え、夢中で競技に取り組んだ姿は、成績や順位に関係なく大きな感動があったと思います。

さて、朝のお勤めのときにご唱和する「正信偈」の中に次のような教えがあります。

「一生造悪値弘誓至安養界証明果」(いっしょうぞうあくちぐぜいしあんにょうかいしょうみょうか)

これは、「一生の間、悪を作り続けたとしても、私を生かしてくださる仏の願いのはたらきに気づくことができたならば、必ず、浄土の世界に生まれて生きる喜びに気づくことができる」という意味です。

ここでの悪というのは、罪を犯したり、道徳に反する行為を指しますが、それだけではありません。釈尊が顕らかにした真理に背くことも悪になります。そんな悪をつくる私が仏の願いに気付き、お互いの差異を認め合う世界、「浄土」の世界に生まれるとはどういうことなのでしょうか。

たとえば、今回のスポーツフェスティバルにあたっては、沢山の人の支えがありました。準備に片付けと骨を折ってくださった先生方や体育委員。仕事の合間を縫って駆けつけてくれた保護者の方々。一緒に競技をしてくれた先生方。みんなを盛り上げてくれた応援係や生徒会役員。そして、共に汗と涙を流した仲間たちの支えがあったからこそ、行事が行事として成り立ったのです。このように「私一人を支えるために沢山の人たちが関わったということ」、その思いや行為を仏といいます。

スポーツフェスティバルの前は、その仏の願いに気付くことができなかったと思いますが、終わってみると、どうでしょう。私個人の思いを越えた大きな感動を味わえたのではありませんか。

何故ならば、私自身がスポーツフェスティバルという行事が学年の垣根を越えて一つになることで、成績や順位に関係なく大きな感動を得られるという真実に気付いたからです。

今回の行事を通して得たことを今日からの学校生活に生かせるといいですね。

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