朝の法話  第十四回

衣更えもあり、学校の雰囲気もがらりと変わりました。これからの冬に向けて、身も心も準備をしていかなければなりません。

さて、二年生は、昨日まで京都の東本願寺研修がありました。伊那西高校の願いを尋ね、自分を見つめるための大事な研修です。

研修の中では、お堂でご本尊である阿弥陀如来や親鸞聖人の前で合掌し、礼拝する機会が多くあります。また研修だけでなく、学校の宗教行事でも、講堂でご本尊を前にして合掌し礼拝することがあります。しかし、よく考えると、その時私たちは何に対して手を合わせ、そして頭を下げているのでしょうか。

親鸞聖人の教えに生きた高光大船(たかみつだいせん)という先生の言葉に、次のようなものがあります。

「拝むとは 拝まれていたことに 気づき醒(さ)めること」

ご本尊や親鸞聖人に向かって手を合わせるのは、何かこちらの都合や願いを叶えるためではありません。反対に、実は仏さまのほうから私たちは願われているのです。

親鸞聖人が「煩悩具足のわれら」とおっしゃるように、自分の思い通りにしようとすることばかり考えているのが私たちです。そして、そのためならば自分の周りのものや人間関係までも自分の都合のいいように利用しようとするのが私たちなのです。

そのような、自分中心の生き方をする私たちを仏さまは悲しんで、「間違った生き方に気付いて、ほんとうの生き方をしてほしい」と願っているのです。私たちが日常で何かに頭を下げているのは、もしかすると自分の都合を叶えるためなのかもしれません。しかし、仏さまの願いに出あったとき、そのような間違った生き方をしていた自分に気づけばおのずと頭が下がり、自分の姿を気づかせてくれた教えに手を合わせずにはいれない、ということがあるのではないでしょうか。

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