朝の法話 第5回

昨日でテストも終わり、いよいよ一学期の最大行事「西高祭」に向けての準備が本格的にはじまりますね。各クラス・クラブの趣向を凝らした創作が出来上がるのではないかと楽しみになります。

さて、今朝も『歎異抄』の言葉に耳を傾けてみましょう。

『歎異抄』第一章に、「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。」という言葉があります。これは「私に本当のことに目を向けさせ、関わるいのちに育てられている私であることを喜べるようにさせたいという願いは、人間のいかなる条件であっても分け隔てない。何故ならば、自分の都合優先で生活している私にこそ救おうとするはたらきだからである。」という意味です。この言葉どおり私たちの生活を振り返ってみますと、多くのいのちに迷惑をかけ、犠牲になってもらわないと生きていけないのに、自分勝手で、自分の都合を優先させてしまうわがままな心の持ち主である私たちの事を言い当てた言葉です。

皆さんは昔こんなことを言われませんでしたか。

「食べ物を粗末にすると目が見えなくなる。」

この目が見えなくなるということは、実際に肉眼の目が見えなくなるということではありません。これは、私に与えられた恩や「おかげさま」が見えなくなってしまうことを言っているのです。

私のために犠牲になってくれたいのちとは、自分の気づかないところで、自分のために働きかけてくれている人や物であったりします。そのことに気づくと、「こんな私なのにおかげさまだよ、ありがとう」といった気持ちが湧きおこってきます。弥陀の本願とは、私をとりまくすべてに対して「ありがとう、あなたのおかげだよ。だから、わたしが精いっぱい充実した人生を送ることこそが、あなたへの恩返しになるんだ」という、報恩感謝の心を教えてくれているのです。