朝の法話  第七回

今年は例年以上に早い梅雨明けに加え、連日猛暑で体調管理に苦労している人もいるでしょう。気候の変化に対応できる身体づくりをしていきたいものですね。

さて、先日西高祭の前半の部が終わりました。振り返ってみると、準備・本番・片付けの中いろんなことがおこり、その度に悩み、考えたことでしょう。しかしながら、どんなに真剣に考えても、どこかで必ず自分の都合というのが発生します。

例えば、忙しくなってくると、自分のことは棚に上げて、他人の悪いところばかりが見えるようになったり、自分を正当化し、正しいはずの自分だけが悪い扱いを受けているような被害妄想におちいったりすることはなかったでしょうか。

そのように自分の外側ばかりに目がいき、なかなか自分自身に目が向かないことはありませんでしたか。

『歎異抄』に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」という言葉があります。

「五劫」とは、途方もなく永い時間のことで、「思惟」とは、真剣に考えるという意味です。

親鸞聖人は、ご自身のことを、どこまでも自分の都合でしか生きられない「凡夫の身である」と述懐されています。

先のことばは、「永い時間かけて凡夫をすくう阿弥陀の願いは、私(親鸞)一人に向けられていたのだ」という意味です。

何も西高祭期間に限ったことではありませんが、普段どれだけ私が自分の都合優先にしても、周りの人は、黙々とはたらき、時に叱り、時に励ましてくれていませんか。それらは全て、自分の愚かさに気付きなさいというメッセージであるのです。

そう思えれば、先生が誰のために叱っているか、友達が自分に何を教えてくれているか分るはずです。すると、今までのすべてのことが、私ひとりのために存在するのだと感じられてはこないでしょうか。

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