朝の法話  第九回

今週は、スポーツフェスティバルがありました。天候の影響もあって少し変則的となりましたが、クラスや学年の垣根を超えた素晴らしい時間を過ごせたのではないでしょうか。

さて、今朝は親鸞聖人が師匠の法然上人から聞いた「愚者になりて往生す」という言葉を紹介します。「愚者」とは愚かさという意味ですが、賢いという意味の対義語ではありません。私たち人間が誰でも有する「愚かさ」のことをさします。

その「愚かさ」とは、欲望にとらわれて自分を見失ったり、自分にとって都合の悪いものを排除しようとして、他者を傷つけ悲しませたりすることです。例えば先日のスポーツフェスティバルのときで考えてみると、始まる前は、「なんで一生懸命にやらなくてはいけないのか」、「こんなこと面倒くさい」とクラスの雰囲気を悪くしたりすることです。このように自分本位になってしまい、周りがみえないことも「愚かさ」なのでしょう。

ところが、行事が終わった後はどうでしたか。自然と喜んだり、涙したりしたでしょう。

それは、自身の「愚かさ」に気づかされたからです。「愚者になりて往生す」とは、自分自身の姿に気づかされることです。自分自身に目が向くと、真実が見えてきます。

今回の行事では、準備に骨を折ってくださった体育の先生や係の生徒、行事を仕切ってくれた生徒会役員、一緒に競技をしてくれた先生方、みんなを盛り上げてくれた応援団、一緒に汗を流した仲間たちの支えがあったからこそ、行事が行事として成り立ったのです。

私が知らないところで、私一人を支えるために沢山のはたらきがあったという真実がそこにありました。

今回の行事にかかわらず、自分の愚かさを認めるところから、他者を理解し、人々との深い関わりを持つことができるのです。