朝の法話   第四回

もう今日で五月が終わろうとしています。六月からは夏服になりますね。暑くなる日も増え始めましたが、新鮮な気持ちで過ごしたいものです。

さて、五月はあちこちで田植えをしている様子が見られました。水田の水面がきらきらと輝いて美しい風景となっています。この時期だけでなく、農家の方々の一年を通してのさまざまな尽力があり、収穫を迎え、私たちのいのちの糧となっていることを思うと、深い感謝の念が起こります。

稲を育て生きる私たちですが、人間には、稲が順調に育つように手助けしたり工夫したりすることはできても、稲が成長し実をつけることそのものは人間の力でできるものではなく、まったく稲自身のいのちの力によるものです。さらには、稲のいのちを支える水や空気や太陽など、人間の力のおよばない自然の力によるものです。

このことを思うとき、人間の小さな思いを超えた、大きな自然の営みの中に私たちが生きていることを感じます。

しかし人間は、その大きな世界を忘れてしまう生き物でもあります。たとえば、稲の成長の妨げになる草を「雑草」と呼び、害となる虫を「害虫」と呼び、排除しようとします。反対に役に立つ虫には「益虫」と名をつけます。稲を収穫し私たちが生きていくためには仕方がないことかもしれませんが、それらは人間のモノサシによる区別であって、雑草も害虫も、自らのいのちを全うしようと生きていることに違いはありません。

自分のモノサシにとらわれ、目の前の損得や勝ち負けばかりを気にして、とにかく自分の都合のいいようにしたがる私たちです。しかし、自分の都合を超えた大きな世界に触れるとき、自分の思い上がりの心が見えてくるのではないでしょうか。

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