朝の法話   第十一回

もうすぐ今年度も折り返しにさしかかります。季節が変わるように、みなさんも年度当初に比べると落ち着いた学校生活を送れているのではないでしょうか。その反面、慣れたことで初心を忘れたり、何となく学校がつまらないと感じたりすることもあるのではないでしょうか。

 「退屈」という言葉があります。「することがなく、時間をもてあます」という意味ですが、本来は、「仏道修行の厳しさに屈し、退いてしまうこと」です。私たちが使う「退屈」というのは、これが転じたものだと考えられます。

ところで、私たちが生きる現代では時間をもてあますことができないかの如く、様々な情報が絶えず入ってきます。その象徴がスマートフォンです。みなさんも特に用事がなくても、無意識のうちにスマホをいじっていることに身に覚えはありませんか。ボタン一つ押せば、情報が流れ込み、疑問なしにその情報を追っていけば、時間を持てあますことはありません。気が付けば学校や家の中、また電車や車の中でも、下を向いていることがあるでしょう。

このように、現代を生きる私たちは、情報を遮断された時に「退屈」と感じているのではないでしょうか。だとすると、「退屈」はスマホや暇つぶしでは解消されません。「退屈」の本来の意味を考えると、目の前の課題に屈するということで、言うなれば、自分がしなければならないことを見失っているということです。そう考えると、「退屈」とは、自分がしなければならないことを見つけなさいと、自らの歩む方向を示しているのかもしれません。

そんな「退屈」を乗り越えるには、まず顔を上げて周りをみて下さい。自分を育て導いてくれた人、悩みを抱えながらも頑張っている友達の姿、それらが自分自身の歩みの方向を確かめさせてくれるのではないでしょうか。

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