朝の法話   第十二回

先週、一年生の東本願寺研修が行われました。「本願寺」は、その名前が表わすように、世間のモノサシに振り回される私たちの「本当の願い」が何なのかを問い尋ねることを願いとした場所です。お寺と学校で形は違っても、願いとするところは伊那西高校も同じなのです。

さて、現在、ラグビーのワールドカップが開かれています。そのラグビーには「ノーサイド」という概念があります。勝敗はついても、試合が終われば敵も味方もない、という考え方です。接触プレーの多いラグビーですが、勝ち負けをかけて試合中に熱くなったとしても、試合後は勝った側も負けた側もひとつになって、お互いを称え合うのが「ノーサイド」という考え方です。

しかし、現実の私たちは、なかなかこのように「ひとつになる」ということができません。いつも敵や味方を作って分けようとします。勝ち負けや損得、優劣を分けて比べたくなります。そういう人間の心を仏教では「分別(ふんべつ)」といいます。

なぜ人間は、敵や味方を分けようとするのでしょうか。それは、自分の考えと違う敵をやっつけることによって、「自分が正しい」ことを証明したいからです。そして同じ考えの味方で集まることによって、自分の考えが正しいことを、さらに証明したいからなのです。

私たちは、自分が正しい側に立っているということを証明して、安心したり自分の存在を大きく見せたりしたいのです。しかしそれは、自分の都合のために、周りの人たちを敵や味方に分けて利用する、自分さえよければいいという浅ましい心なのです。

なかなか「ひとつになる」ことができないのは、私たちの心の中に「自分が正しい」という頑なな思いが隠れているからです。そういう暗い心に光が当たれば、もともと自分を誇示する必要なんてなかった、本当の意味でまわりとひとつになれる生き方が開かれてくるのです。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。