朝の法話   第十三回

先週は台風が日本列島を直撃しました。毎年、毎回被害が出ている日本列島ですが、とりわけ今回は長野県にも被害が出たということで、多くの方が「まさか自分の住んでいる地域が…」と困惑されています。今までどこか他人事のようなことも、実際に自分の身におきて初めて分かることがあります。と、同時に私たちは自分の身に起こらないと、いつまでも自分自身の問題として捉えられないのです。

 さて、今朝は「縁起」についてお話をしたいと思います。

よく「縁起がいい、縁起が悪い」なんて言葉を聞いたことがありませんか?例えば、お祝い事は大安の日がいいとか、病人のお見舞いに鉢植えを贈るのはよくないなど、これから先に起こる良いこと、悪いことの兆しとして「縁起」という言葉は使われます。しかし本来「縁起」とは、存在や現象の原理ともいうべき真理のことです。

あらゆる現象は、それ自体で存在しません。例えば、この法話が書かれている紙も、それ自体では存在しません。樹木があって存在するのです。その樹木も水がないと存在しませんし、水も雲がないと存在しないのです。さらに紙を作るには木を伐る人が必要であり、森や人間が育つには太陽の光が必要である、というように、その他いっさいのものがこの一枚の紙のなかにあると言えます。

つまり、今、起こっていることの全てには、そうなる可能性がある「因」となるものがあり、それが環境や条件、あるいは出逢いとなる「縁」にふれて成り立っているのです。

 今の私たちについても考えてみて下さい。生まれてから今まで出遇った人はどれほどいるでしょうか。口にしたもの、身につけたもの、使ったものが数えきれないほどあるように、関係性の中で私は存在しているのです。仏教の時間に唱和する「人身受け難し…」とあるように、いいも悪いも関係なく全てのことが今の私に必要だったのです。