朝の法話   第十四回

寒さが身にしみるような季節になってきました。先日の台風で被害に遭われた方々が、これからこの厳しい気候を過ごしていかなければならないことを思うと、大変心苦しく思います。

さて、私たちが学んでいる親鸞という人は、どこまでも自分と向き合い、仏教を通して人間という存在について考え抜かれた僧侶です。つまり、私たちが親鸞の教えを学ぶということは、人間とはどういう存在であるかを親鸞から学ぶということなのです。世の中の様子や環境が時代とともに変わったとしても、人間が生きていく

ということに変わりありません。ですので、人間について考えることがあらゆることの基本になければ、生きる方向性を見失ってしまうはずです。

ある人は、現代の人間社会の様子を「今だけ、金だけ、自分だけ」と表現しました。すぐに効果や成果が出るものばかりが尊ばれ、長い目で物事を考えられず、後先を考える力を失っています。また、「お金」に表わされるような、数値化して比較ができ、損得が分かりやすいものばかりが尊ばれます。そして、個人の権利ばかりが主張され、我慢するということを知らず、他人が良い思いをすることが許せません。そのような様子を表わした言葉です。

しかし、これは誰かがそうしたわけではなく、人間がより自由に、より便利に、より快適な社会を求めた結果が、今のような、自分の殻に閉じこもり、お互いを認め合うことのできない社会を生み出しているのです。つまり、人間が「良かれ」と思って進んだ結果、かえって人間の本当の幸せを見失ってしまうような社会を作っているのです。

親鸞は、そのような人間の姿を「雑毒の善(ぞうどくのぜん)」と言いました。人間の頭が求めていることが、果たして人間が心から「願い」としていることなのか、親鸞の言葉を通して考える必要があります。

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