朝の法話   第十六回

昨日、伊那西高校の報恩講がお勤めされました。伊那西高校で生活をするすべての人が、この学校の願いを確かめるための大事な行事のひとつです。

さて、今回の報恩講カードの言葉は、次のような言葉です。

「遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。」

これは、親鸞聖人の主著である『教行信証』の「総序」と呼ばれる部分にある言葉で、仏さまの教えに出遇えた喜びを表現した言葉です。

親鸞聖人は、その主著の中で、非常に細かく言葉を使い分けておられます。「あう」という字にも種類はたくさんありますが、ここで使われている「遇う」という字は、「偶然に出あう」という意味の文字です。この字からも、自分自身の本当の姿に気付くことができたのは、まったく自分の力ではなく、これまで出会ったすべての人や出来事のおかげである、という親鸞聖人の思いが込められています。

また、「かたい」という字は「難しい」という字を書きます。自分に、自分の本当の姿を教えてくれる言葉というのは、自分に突き刺さる耳障りなものです。ですから、人からの指摘にはなかなか素直に耳を傾けられないものです。心当たりがあればあるほど、目を背け耳を塞ぎたくなるものです。ですから「聞きがたくして」と親鸞聖人は表現されているのです。

そのような、聞く耳を持たず、自分のモノサシばかりで生きる私たちだからこそ、「大事なことに気付いてほしい」と阿弥陀如来は私たちに寄り添い悲しんでくださっているのです。その有り難さを、親鸞聖人は「恩徳讃」の中で「如来大悲の恩徳は」と表現しました。おかげさまを忘れている自分が申し訳なく感じる時にこそ、私に寄り添い支えてくれていたものの有り難さを深く感じるのです。